そっとページを閉じてください

たまに怒りで頭が沸騰しそうになる。

お金を貰っていたんだから被害者面するなとか、お金に目がくらんだとか、福島を叩く書き込みに。それが驚く程軽いウエイトで発言されていることに。

どこの県も、原発を誘致せずにいれば、日本に原発は存在しなくてすんだとでもいうのだろうか?
福島や柏崎が原発を誘致しなかったとしても、国が原子力発電所を推進していたのだから、結局日本のどこかが引き受けることになっていたのではないか。

どちらにしろ過去に対しての「もしも」論は何の意味もないと思う。

言葉は時に、刃だ。
深く心につきささり揺さぶる。
しかし言葉は言葉でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

だから傷つかないでください。
何も知らない人の、個を無視した矮小な言葉などで、どうか傷つかないでいてください。

前に進むしかない私達は、そんなただの言葉に足を引っ張られている暇などない。
自分を知らない、故郷を知らない、歴史を知らない人達の、声なんて怖くない。

目を閉じずとも、懐かしい景色をどんなにでも思い出すことができる。
全て嫌になって投げ出したくもなるけれど、インターネットは全てではなく、正しいことは一つだけとは限らない。

インターネットでは情報の取捨選択が大事だと重ね重ね言われているけれど、それをもう一度、自分に叩き込む必要がある。

今日の糸井重里さんのツイート。

https://twitter.com/#!/itoi_shigesato/status/62361426609704960

ぼくは、じぶんが参考にする意見としては、「よりスキャンダラスでないほう」を選びます。「より脅かしてないほう」を選びます。「より正義を語らないほう」を選びます。「より失礼でないほう」を選びます。そして「よりユーモアのあるほう」を選びます。

冷静な意見を見抜くための的確な選択方法だと思う。


だけどどんなに馬鹿げた意見でも、声が大きい人に傾倒する人はどうしても現れてしまう。
それはこれまでの歴史をみればあまりに明らかだ。
だからちゃんと私達も声をあげなければならない。
小さい声でも。拙い文でも。たとえ誰にも届かなくても。
ブログでも、ツイッターでも、日記帳でも。
伝えたいことは、形に。それは誰よりも自分自身に誠実でいるために。

分からないから怖い。

ミステリー小説が好きです。そして読んでいて一番怖いと思うお話にはいつも共通点があります。それは、

「分からないから怖い。」

理解できない動機で反抗に及ぶ犯人、意味のない犯罪。
怖いです。
そしてそれは現実世界でも共通していると思います。
無差別殺人や通り魔や怪談など。分からないから怖いのです。

さて、これを合い言葉に昨日、原発に関する本を買いました。
今回の事故後に発行されたものではないものを。

まだ読み途中なのですが、心に響いた部分を残しておきたいと思います。

1903年ノーベル物理学賞をベクレルと共同で受賞したキュリー夫妻。夫のピエール・キュリーノーベル賞受賞者講演より。

ラジウム放射線が、いくつかの病気(狼瘡、ガン、神経疾患)の治療に使われました。ときに危険な場合があります。ラジウム塩が数センチグラム入った小さなガラスのアンプルをしまった木箱またはボール紙の箱を2・3時間ポケットに入れておいても、人は何も感じません。しかし、15日後、表皮が赤くなり、ついで痛みが来るが、その治療はとても困難です。
(中略)ラジウムが犯罪者の手に渡ると非常に危険になるでしょう。その結果、人類が自然の秘密を知ることの利益とは何か、それを得る準備はできているのか、その知識が有害となることはないか、といった問題が生じます。ノーベルの発明の例が典型的です。強力な爆薬のおかげで人は素晴らしい仕事をすることができます。しかし爆薬は、人々を戦争に引き込もうとする巨悪の手に落ちると、恐ろしい破壊の手段となります。私はノーベルと同様、人類は新しい発見から害悪よりも善をより多く引き出すと信じている一人です。」

原発とプルトニウム(PHPサイエンス・ワールド新書) [新書]
常石 敬一 (著) より抜粋。

事実がかいてあるだけの本なので、まだ理解しきれない部分も本当にたくさんあるのですが、そのただの事実に、言葉に尽くせない感情がたくさん溢れては消えていき、何度も涙ぐみました。
人間はなんて不安定なんだろうと、歪な積み木遊びを続けているかのようだと思いました。

かつては自然界にも存在したプルトニウムが、地上から姿を消して15億年程後に人類が出現。
100万年程はプルトニウムとは無縁の生活を送っていたのに、化学の進歩により人工的に生成する技術を手にしたのが1940年。
プルトニウムを使った原爆が長崎に投下されたのがその僅か5年後の1945年。
スリーマイル島原子力発電所事故が1979年。
チェルノブイリ原子力発電所事故が1986年。
そして現在、福島第一原子力発電所の事故2011年。

その、あまりに新しすぎる歴史にびっくりしました。

そりゃあわたわたするはずだ、と思いました。
だから未だに核実験が繰り返されているのかと、思いました。


それから、ポツダム宣言が1945年。
敗戦後日本の原子力研究は全面禁止になっており、
1952年のサンフランシスコ講和条約によって研究が解禁となりました。
国連本部で開催された原子力の平和利用に関する国連総会でのアイゼンハワー米大統領の「平和のための原子力」演説が1953年。

さっきの本によると、この演説以降に、プルトニウム発電所や船の動力のため原子炉で生成され続けることになったそうです。
そして1955年に日本で原子力基本法が成立。

先日書いた1960年に福島が双葉郡原子力発電所誘致の敷地提供表明した事実と掛け合わせて考えると、どう考えても、実際に日本だけの問題ではないと思いました。

まだ「知らないから怖い」は解決できていません。
またこれらの、あまりに短い原発の歴史からみて、容易に片がつく問題ではないことも実感してしまいました。
それでも知っていくことは無駄ではないと思います。

0時を回りました。
避難指示区域だった私の実家は、今日から警戒区域となりました。

戦ってる人、帰りたい人、頑張りたい人

1ヶ月とちょっと。
ちらほらと地元で暮らしていた友人の避難の様子も聞こえてきた。
見えなかった地元の様子も、やっとテレビや記事に取り上げられるようになってきた。

だからその分、様々な人の声も聞こえるようになってきた。

避難10Km圏内の町長がいち早く別の県へ避難したという事実の上辺だけを取り上げて、無責任と言い放ったり、避難所での臨時役場の対応に文句を言ったりする人もいる。
その町長さんの家は海沿いにあったため、津波の被害が大きく、家は流されてしまっている。しかも復興の兆しも見えないあの土地では瓦礫は今もあの日のままだ。
役場の職員たちは、1番に取り掛かりたい復興作業に取り掛かることもできず、知らない土地で、住民のためにはじめての仕事を着々と行っている。食事はジャンクフード、夜は雑魚寝。疲労はたまる一方ではないか。

前回の記事を書いたとき、1番恐ろしかったのは、福島と他県の間に溝ができることだった。
新たな差別を生み出すきっかけを与えて欲しくなかったし、あのタイトルによって原発問題を自分たちと切り離してしまう人達が増えてしまうのも怖かった。
実際、すでに日常を取り戻した多くの人達にとって、原発の問題は対岸の火事になってきてしまっている。
誰だって安全な場所に自分を置いておきたい。その気持ちが余計に、原発を自分とは無関係な場所に置きたがるのだと思う。
でもそんなのは間違ってる。
県民だけの問題じゃない。
周辺住民だけの問題じゃない。
日本だけの問題じゃない。
他人事にしていいはずがない。

兄が言った。
もう生きていくのめんどくさい、と。
私が何も言えないでいると、話題はパッとくだらない話に切り替わった。
私は言える言葉を見つけることが出来なかった。

兄は新卒で地元に就職し、十数年間営業としてコツコツと真面目に働いてきた。営業にとって、人脈は命綱だろう。
築き上げてきたその人間関係は、避難指示を境に塵となってしまった。
住み慣れた家を離れる、と言うのは容易いけれど、もう一度想像してほしい。
スーツもワイシャツもお気に入りの洋服も、ドラマを録画していたテレビも、おかずも炊飯器の中のごはんも、運が悪ければ津波で泥まみれ、運がよくても割れた窓から空気にさらされたまま、取りに戻ることも、様子を見に行くことさえ難しい状況なのだ。
不幸比べなんて意味がないのは分かってる。可哀相の運動会なんて嫌だ。不幸だなんて声を大にして叫びたい人はいない。だけどみんな、疲弊しきっている。あの日からずっと絶望の縁に立たされている人達にかけるには、悲しい言葉が多すぎる。
頑張ろう日本のCMが取り沙汰されているけれど、私はあの台詞が悪いとは思わない。『頑張ろう』は、頑張れない人を無理矢理頑張らせようとしているのではなく、頑張りたい人の肩を叩き、そして自分自身を奮い立たせるための言葉だと思うからだ。だからプレッシャーだなんて思う必要もない。
未曾有の事態。たくさんの人が助け合わないと、いい方向へは進んでいかない。
そんな中で、1番助け合えるだろう県民同士が、いがみ合っているのがとても悲しかった。
地震のあの日、東京では電車が止まった。帰宅難民がタクシーに行列し、コンビニから食べ物が瞬く間になくなっていった。
一人でなんて生きられない。
震えるほどに私たちは助け合って生きている。
それらは当たり前のことではなく、今まででの歴史の中で築き上げてきた素晴らしい成果だ。
事態の収束はまだまだ見えない。
けれど日本を復興していくには、あらゆる事象を同時進行で進めていかなくてはならない。
先が見えずとも私たちは出来ることをするしかないのだ。
不安の中でも混乱の中でも、私はしなやかにいたい。
故郷の福島が大好きだ。
福島も日本も人間も、何も諦めたくなんかない。よし、頑張ろう。


*前回のエントリーについて、各所で優しいコメントを目にすることが出来ました。本当にありがとうございます。ブログを作って良かったと思いました。このブログいただいたコメントに返信が出来ていなくて申し訳ないです。。いつか時間を見つけて必ずお返しいたします。すみません。。読んでいただき、本当にありがとうございました。

そこに原発が必要だったかどうかだなんて誰にもわからない

福島には原発が必要だった - あ

違う、そうじゃない。

この記事をよんでまず浮かんできたのはその感情。
わかる。言いたいことは分かる。
このタイトルが、結びの言葉を強くするために付けられたものだということも理解できるしその思惑通り最後の訴えは強く生きていると思う。

平時ならば、みんなが冷静に日常を歩んでいるときならば、
あるいはこんな感情は抱かなかったかもしれない。

とにかく様々なことを考えさせられ、自分の考えを生ませる記事だった。そしてこの浮かんできた違和感をどうにかするために、私も同じ土俵にたたなければと思い、ブログを開設した。



前述の通り、内容は理解できるのだ。
それでも違和感を感じてしょうがないのは、タイトル。

「福島には原子力が必要だった」

『過疎地域。貧しい県。県庁所在地の若者でさえ、隣の仙台市へ遊びに行ってしまうような土地。知事も町長も原発を歓迎し、原発があったことで多くの雇用が生まれ、周辺地域の双葉郡の財政は潤っていた。その上安心安全なエネルギーと聞いていたし信じていた。だから原発に賛成してきた。
だけどそれはすでに過去のことで、そうやって推進してきた人たちも、原発に反対していいんだよ。原発はいらないと主張していいんだよ。』

そう訴えている内容。

分かるよ。
理解できる。
でもどうしても、このタイトルをみるたびに、違和感、そして怒りを覚えてしまう。

私が生まれた町は福島第一原子力発電所から10kmの範囲に入る町。
高校卒業後上京し、数年前から都内の会社に勤めている。
故郷では地震のすぐ後に避難指示が出され、家族や友達が今も避難生活を続けている。

地震後、やっと繋がった電話で聞いた避難時の家族の様子。
おにぎり一個で一日生活し、毛布にくるまって固い床の上では眠ることもできなかったと言っていた。
そして90代後半の、認知症のため私の顔すらあやふやな祖母が、避難所で言ったという言葉。

「出来たときからこうなるかもしれないことは分かってたんだ」

原発の水素爆発の事故後に言った言葉だという。

私はそれを聞いて、そうか、分かっていたのか、と小さな衝撃を受けた。
それからしばらく、その言葉は頭の中でぐるぐると巡っていた。

大人になった今はもちろん、生まれたときからすでに、この福島第一原子力発電所はそこにあった。

第一原子力発電所ができたのが約40年前。(営業運転開始が1971年3月26日だからほんとうに丁度40年)
Wikipediaに記載されている通りだと、福島県東京電力に敷地を提供すると表明したのは50年前。
そこで発電された電力は全て他県(首都圏1都7県(群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、東京都、千葉県、神奈川県、山梨県)、静岡県富士川以東)へと供給されていた。

これらは祖母の言葉を受けWikipediaで調べてはじめてわかったことで、生まれてから今まで、原発のことなんて気にしたこともなかったのだ。
実際にこの事業を進めたのは当時のお偉方だったと考えると、若く見積もっても、当時40、50代だった方だと思う。
つまり現在は90歳〜100歳の方々。
そんな立派な高齢者。きっとすでに、うちの祖母と同じようにもうろくしている。もしくは亡くなっているだろう。

他県の方々が「自分たちが好き好んで福島県発電所を押し付けたのではない」というように、今現在この問題に関わっているほとんどの人達が、自分がそうしたくてこの事業を押し進めてきたわけではないと思う。実際に現在復旧活動に勤しんでいる作業員の方々も、責められている東京電力役員の方々も。(もちろん企業としての責任は重いと思う)

私自身の家族に東電関係者はいないが、友人の家族や友人など、多くの知人が、東京電力、またはその下請けで働いている。
だから双葉郡の人間の雇用元として大きな位置をしめていたのも事実。
だけどただ、たったそれだけのことだと思う。
原発誘致により、双葉郡は潤ったといったって、実際それを実感し、喜んでいた人がどれほどいたというのだろうか。
少なくとも、私達若者が実感したことはないだろう。電車は1時間に一本。終電は10時前。買いものは福島市の方と同じように仙台へ、2時間かけて行くか、1時間かけていわきのイトーヨーカドーやサティへ行くか、だ。
雇用?そんなのあるものに応募するだけだ。希望した全員が東電に就職できるわけでもなく、東電がなかった場合はなかったなりに、どうにでもなる。

自分の生まれる土地も、国も親も時代も選ぶことはできない。
原発はすでにそこにあったのだ。

「福島には原発が必要だった?」

もし仮にそうだったとしても、私達はそれを認めなければならないのだろうか。
福島に生まれてしまったから、原発について考えなければならないのだろうか。
福島に生まれてしまったから原発を反対/推進しなければならなかったのだろうか。
福島に生まれたことを運が悪かったと思い、福島で起こってしまった原発事故を、雇用のために、お金のために、原発は自分たちが必要としていたものだったと、恩恵も受けていたと、そう認めなくてはいけないのだろうか。
強大な壁で囲われているわけでもない、地図上の見えない線で囲われているだけのこの小さな国の中で、ただその県というくくりが、いったい何になるのだろう。
しかし実際にその名称の重圧は、重くのしかかる。
差別は避けられない。私達はそれに耐えなくてはならない。
自分一人なら、覚悟するのはとても簡単だけれど、自分以外の他人、生まれたばかりの子供たちや、家族のことを考えると、自分だけで守りきるのはとても無理だと思う。
守るためにはどうしても、たくさんの人の理解と応援が必要だ。

福島に生まれたことが、不幸なことだったとは思わない。そして誰にも、そう思わせたくない。

だからこそ、このタイトルに違和感を覚えて、このブログを作り文章をかいた。
原発が必要か不必要か、そこに福島をもちだす必要はないのではないか。
福島だから、考えなくてはいけないことなのではなく、資源の乏しいこの国で、豊かな生活を送っている、一人一人全員が考えなくてはいけないことだと思う。

20数年前日本の福島県に人間として生まれた。そこに意味なんてないと思う。

揃って故郷へ帰れるのがいつになるのか、今は検討もつきません。誰を責めても、もう何も元には戻らない。
ただひたすら一人一人が、自分のために、子供のために、家族のために、なんでもいいからとにかく、繋げていかなくてはいけないのだと思う。

誰も責めない。誰かのせいにするのは楽だけど、誰の人生も等しく一度きりなのだから。
いつか揃って故郷へ帰る時には、きっと盛大な同窓会になるだろう。
盛大に、大騒ぎして、お酒を飲みたいと思う。


補足年表(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80から抜粋)
1960年(昭和35年)11月29日:福島県から東京電力に対し、双葉郡への原子力発電所誘致の敷地提供をする旨を表明する。
1970年(昭和45年)11月17日:1号機の試運転を開始する(翌年5月11日に記念式典を実施する)。
1971年(昭和46年)3月26日:1号機の営業運転を開始する。