戦ってる人、帰りたい人、頑張りたい人

1ヶ月とちょっと。
ちらほらと地元で暮らしていた友人の避難の様子も聞こえてきた。
見えなかった地元の様子も、やっとテレビや記事に取り上げられるようになってきた。

だからその分、様々な人の声も聞こえるようになってきた。

避難10Km圏内の町長がいち早く別の県へ避難したという事実の上辺だけを取り上げて、無責任と言い放ったり、避難所での臨時役場の対応に文句を言ったりする人もいる。
その町長さんの家は海沿いにあったため、津波の被害が大きく、家は流されてしまっている。しかも復興の兆しも見えないあの土地では瓦礫は今もあの日のままだ。
役場の職員たちは、1番に取り掛かりたい復興作業に取り掛かることもできず、知らない土地で、住民のためにはじめての仕事を着々と行っている。食事はジャンクフード、夜は雑魚寝。疲労はたまる一方ではないか。

前回の記事を書いたとき、1番恐ろしかったのは、福島と他県の間に溝ができることだった。
新たな差別を生み出すきっかけを与えて欲しくなかったし、あのタイトルによって原発問題を自分たちと切り離してしまう人達が増えてしまうのも怖かった。
実際、すでに日常を取り戻した多くの人達にとって、原発の問題は対岸の火事になってきてしまっている。
誰だって安全な場所に自分を置いておきたい。その気持ちが余計に、原発を自分とは無関係な場所に置きたがるのだと思う。
でもそんなのは間違ってる。
県民だけの問題じゃない。
周辺住民だけの問題じゃない。
日本だけの問題じゃない。
他人事にしていいはずがない。

兄が言った。
もう生きていくのめんどくさい、と。
私が何も言えないでいると、話題はパッとくだらない話に切り替わった。
私は言える言葉を見つけることが出来なかった。

兄は新卒で地元に就職し、十数年間営業としてコツコツと真面目に働いてきた。営業にとって、人脈は命綱だろう。
築き上げてきたその人間関係は、避難指示を境に塵となってしまった。
住み慣れた家を離れる、と言うのは容易いけれど、もう一度想像してほしい。
スーツもワイシャツもお気に入りの洋服も、ドラマを録画していたテレビも、おかずも炊飯器の中のごはんも、運が悪ければ津波で泥まみれ、運がよくても割れた窓から空気にさらされたまま、取りに戻ることも、様子を見に行くことさえ難しい状況なのだ。
不幸比べなんて意味がないのは分かってる。可哀相の運動会なんて嫌だ。不幸だなんて声を大にして叫びたい人はいない。だけどみんな、疲弊しきっている。あの日からずっと絶望の縁に立たされている人達にかけるには、悲しい言葉が多すぎる。
頑張ろう日本のCMが取り沙汰されているけれど、私はあの台詞が悪いとは思わない。『頑張ろう』は、頑張れない人を無理矢理頑張らせようとしているのではなく、頑張りたい人の肩を叩き、そして自分自身を奮い立たせるための言葉だと思うからだ。だからプレッシャーだなんて思う必要もない。
未曾有の事態。たくさんの人が助け合わないと、いい方向へは進んでいかない。
そんな中で、1番助け合えるだろう県民同士が、いがみ合っているのがとても悲しかった。
地震のあの日、東京では電車が止まった。帰宅難民がタクシーに行列し、コンビニから食べ物が瞬く間になくなっていった。
一人でなんて生きられない。
震えるほどに私たちは助け合って生きている。
それらは当たり前のことではなく、今まででの歴史の中で築き上げてきた素晴らしい成果だ。
事態の収束はまだまだ見えない。
けれど日本を復興していくには、あらゆる事象を同時進行で進めていかなくてはならない。
先が見えずとも私たちは出来ることをするしかないのだ。
不安の中でも混乱の中でも、私はしなやかにいたい。
故郷の福島が大好きだ。
福島も日本も人間も、何も諦めたくなんかない。よし、頑張ろう。


*前回のエントリーについて、各所で優しいコメントを目にすることが出来ました。本当にありがとうございます。ブログを作って良かったと思いました。このブログいただいたコメントに返信が出来ていなくて申し訳ないです。。いつか時間を見つけて必ずお返しいたします。すみません。。読んでいただき、本当にありがとうございました。